路地裏のグラフィティ

日常に埋もれた論理的な話や哲学的な話

「なんだか好き」という感情

はじめに

子供に「何が楽しいの?」とか「何が嬉しいの?」と聞くと、うまく答えられません。言葉で説明できないのかもしれませんが、それが良いところです。

ワクワクする感情は、説明させないままの方がイイと思います。

今回は そんな「好き」についてを綴りました。

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 -目次-

 

好きな事より好きな人

僕は好きな事をしている人が好きですね。

人は好みが同じ人に共感しますが「好きな人の好きな事」にも共感することができるんじゃないですか?

例えば、仲の良い友達から「一緒に芸人になろう」と誘われて、ノリ気じゃないけど始めてみたら、本人が相方より売れていたり。

スポーツが大嫌いなお父さんが子供のサッカーがキッカケで自分も始めて、いつの間にかコーチまでしていたりとか。

たぶん、優先されるのは常に「事」より「人」が先に立つんですよ。

「好きな人が好きな事は好きになる」というのなら、わざわざ他人から好かれる事を探して好きにならなくてもいいですね。

自分が好きな事を、そのまま好きでいる方がいいですから。

 

好きなことで得た幸せは迷惑に勝る

「人に迷惑をかけてはいけません」

たしかにそうですね。

人は生きているだけで、誰かに迷惑をかけています。

なのに、もっと迷惑をかけて何かしようとしているのですから。

でも、人は生きているだけで誰かを幸せにもしています。

そして「誰か」とは自分自身も含んでいます。

なのに、もっと幸せになりたくて何かしようとしています。

迷惑と幸せは生きているだけで存在しています

だから日頃から「誰かに迷惑をかけてないか」と心配したり 「誰かをもっと幸せにできないか」と気を張りすぎる必要もないですね。

自分が好きなことに夢中な時に「これは誰かの迷惑ではないだろうか」と少し考えるくらいで ちょうど良いです。

それが本当に好きな事ならば、必ず幸せとなるので、その幸せを別の形にして、身近な人に分けてあげれば良いです。

そうすれば、多少の迷惑すら、こころよく受け止めてくれるはずです。

 

おわりに

大事なことは「なんだか好きだなぁ」と思うこと。

この「なんだか」という感覚を大人になるまで大切に持っていると、道しるべに変わることがあります。

大人になると、嫌いなことに対して、やるべき理由をコジつけることが得意になります。

すると、好きなことが、なぜ好きなのかという理由も見つけようとします。

ところが、好きなことの理由には「なんだか好き」というだけで、最初から明確な理由などありません。

なので「理由がないものは価値がない」と錯覚した大人達は「なんだか」という感情を無視して、好きなものを好きではなくなったり、やりたいけれど、やるべきではないのかと苦悩することがあります。

ところが本来は、好きなことも嫌いなことも、理由など必要ないのです。

「なんだか好き」「なんだか嫌い」

これで十分な結論になっていますからね。

 

人生の時間に対する考え方

はじめに

すべての人間は必ず死にます。

遅かれ早かれ、生きている時間には限りがあります。

それを分かった上で人間は生きていきます。

だから、好きな時間を過ごしたいと思うのは自然なことですね。

でも、好きな時間とは何でしょう。

嫌いな時間は何でしょう。

好きと嫌いがあるのなら、それ以外の時間は何でしょう。

今回は「時間の考え方」について綴りました。

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 - 目次 -

 

効率が良ければ良いわけでもない

1日の時間は24時間。

どんな人も時間は平等に与えられています。

人生には猫の手も借りたいほど忙しい時間もあれば、退屈でのんびりとした時間もあります。

目覚ましが鳴る朝は、布団から出たくない時もあります。

こんな時は「あと5分でもイイから寝かせてほしい」と思いますね。

でも逆に、予定のない休日でダラダラと過ごしてしまう日もあれば、そんな時は「この 5分をあの時の朝に使いたい」なんて思うのかもしれません。

ただ時間は止まることなく平等に流れています。

一人だけスピードを変えることもできません。

となると、代わりに求められるのは効率でしょうか。

しかし、のんびりとした休日の夜に「明日の朝の準備をしておけば、翌朝は5分長く寝れるよ」と言われても面倒くさいですね。

それを言うと例えば、年末にやってる大掃除も12月にやらなくていいです。

ただでさえ忙しい年末を選んで、みんな揃って掃除しているんですから、別に2月でもいいし、8月でもいいです。年に1回やれば事足ります。

しかしまぁ、そういう事ではないのなら、なんでもかんでも効率が一番ってわけではないようですね。

 

ルーティンも大事ではない

帰宅後の鬼のルーティンを紹介しますね。

「家に帰ったらまず、お風呂で湯はりボタンを押しておきます。その間に炊飯器のボタンを押します。そして料理を作ります。作り終わる頃に、ちょうどお風呂の湯はりが終わるので、子供と一緒にお風呂に入ります。洗濯機を回しておきます。その頃、ちょうどお米が炊けてます ので、先ほど作った料理と一緒に食べます。そうすると、ちょうど洗濯が終わっています」 という効率的ルーティンです。

でも、子供の話を聞いてあげたり、疲れているので早めに寝たかったり、 ご飯じゃなくて麺が良いとか、明日は雨で洗濯物は干せないとか。いろいろと発生します。

だから このルーティンは完璧には実現しません。

どんな動き方が大切なのかは、いちいち決めていなくても 自然と無意識に、毎日、毎分毎秒、判断しているわけですね。

そう考えると、生活リズムや、家族の体調、 明日の事や自分の時間... ルーティンより大切なものはあります。

ルーティンの優先度なんて激的に低いです。

 

おわりに

好きな時間の為に、嫌いな時間を過ごしている人がいます。

こうした人は、嫌いな時間を過ごすことで、好きな時間が生まれるという考え方をします。この場合、好きなことと嫌いなことが常にセットで発生するので、好きな時間だけで充足させることができません。

そうではなく、例えば「仕事しなければ、生きていくことができない」という状況の人は、それが好きか嫌いかの前に「好きか嫌いか」の選択する考え方自体がありません。

なので、好きな時間と嫌いな時間という区別ができるという時点で、嫌いな時間が生まれる問題は、環境や他人ではなく自分自身の中にあります。

そもそも「好きな遊びをする為に、嫌いな仕事する」という考え方では、嫌いな仕事をすることを自らが「好きで選択」していますからね。

だから僕は、好きなことは、どんなに小さなことでもイイので、嫌いなことを必要としないものから選ぶと良いと思っています。

つまり最初は、他人にお願いしたり、多額のお金を使うことのないものから見つけるべきと思います。

それが出来なくて、先ほど述べた「好きな時間を作るために嫌いな時間を作る」という負のループに陥っている人をよく見かけますから。

 

時代のせいにする時代

はじめに

最近「時代の流れにのれていない」とか「あの人は時代錯誤だ」という言葉をよく聞きませんか?

なんでもかんでも「時代のせいにする時代」なんですかね。

それとも、時代が変わると、正しいとされていることも変わるのでしょうか。

変わっているのであれば、それは、もともとが間違っていたのでしょうか。

そんな「時代」について考えてみました。

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時代のせい? 時代のおかげ?

28年前(1998年)僕が小学生の時、宿題を忘れると頬に平手打ちする恐い先生がいました。

ある日「宿題を忘れた生徒は手を挙げなさい」と言われて、手を挙げたら十五人ぐらいいたんです。生徒の半分くらいが後ろに横一列で並ばされて、男女も関係なく、右から順番に容赦 なくビンタされていきました。最後の生徒が怖くなってしまって、手で顔を隠したら、それに 腹を立てた先生が怒鳴りながら、2回ビンタしていました。頬が真っ赤になっていましたね。もちろん女の子は泣いていました。

今の子供は信じられないでしょうね。

僕も大人から思いっきりビンタされたのは あの日以来、一度もないです。

たとえ猪木でも遠慮しておきます

時代って、怖いですね。体罰は反対ですが、善し悪しの議論に興味はないので、そこは深掘りしません。

僕が興味を持ったのは「その先生は時代のせいだったのか」という点です。

おそらく この先生は今の時代に生まれていたとしても先生をしていたような気がするんです。

しかし、その場合、子供を叩いてはいないのかもしれません。

この場合は、時代の「おかげ」ですね。

きっと本質的なものは、いつの時代も何も変わっていないんですよ。

時代のせいにしている人ほど、時代のおかげに、あやかってる人かも知れませんよ

 

「今」を生きてる人は後悔しない

将来の為に貯金しようとか、子供の頃に勉強しておけば良かったとか、未来や過去に生きている人って多いんですけど「今」を生きている人って案外、少ないんじゃないですか?

ご飯が美味しいなぁとか、空がキレイだなぁとか、不思議なもので「今」を感じることって、 忘れがちです。

未来を考えて生きるという事は、もちろん大事です。

でも実際にその未来がや ってきた後は、またその先の未来の為に生きようとする。そしてまた未来がやってくると、またその先の未来というように。

終いには、自分が死んだ後のことまで考えている人までいる。

となると、僕たちは一体いつの時代の為に生きているんですかね?

そんなに頑張って未来の為に生きてしまうと「未来の為に生きてきた過去を後悔してないか」 という問いを人生の最後に自分に課してしまうような気がします。

今だけを生きている生物は、未来も過去の事も考えないんですよね。

だから、イソップ童話の「アリとキリギリス」のアリがキリギリスに向かって「夏の自分を思い出して後悔しろ!」と言ったとしても、もしかしたらキリギリスは後悔するどころか「歌って踊って最高の夏だったなぁ」と幸せな夏を思い出して、ニコニコと笑って冬に死んでいるのかもしれません。

 

あとがき

「今の時代はそういう時代」という言葉は、時代という言葉自体に、文化や風潮の意味を含んでいるように使われています。

しかも、自然発生というよりも人間達が自らで生み出しておいて「新時代が到来する」と言っていたりします。

つまり、新しい時代を考えていることは、他人達の行動を予測していることと似ていますね。

その予測によって自分の行動を決めるわけですが、その自分の行動も他人から見れば他人の行動です。

時代を意識した行動が時代を作っているという無限ループの出来上がりです。

そう考えると、時代の流れなど意識しない方が、むしろ自然的に思いますが、世間ではうまくいきません。

だから、世間的には時代の流れにのっているかのように見せておいて、ひとり別の道に向かうというのが、賢いのではないでしょうか。

 

新しい横文字、そんなに大事?

はじめに

世の中に、新しい言葉や横文字の専門用語が増えました。

ビジネスシーンは特に横文字を使いますよね。

「プライオリティ高いね!」

「エビデンスはあるの?」

「リマインドしてる?」

ルー大柴さん みたいですね。

今回はそんな「横文字」について考えてみました。

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横文字を使う人達

ビジネスシーンでは「横文字」って本当に多いです。

でもプライベートでは使ってませんよね?

「来週末の飲み会はコンセンサス取れた?」

なんて聞く人はいませんし。

なので、ビジネスシーンでは、知的な部分を虚勢してみせたり、背伸びするために使ってる のかもしれません。だとしたら、イイんじゃないですかね。

「頑張っていてスゴいな」と思いますよ。

実際に聞いてる方も、それに合わせようとして、社会に対してアンテナを張るので、何かしら の効果はあるんだと思います。

プライオリティ=「優先順位」とか、

エビデンス=「根拠」とか、

意識高い系の人が声を大にして伝えたそうなワードですからね。

単純に声を大きくしたり、イントネーションつけたりするだけじゃ芸がないので、ヒネリに ヒネったら、感情が溢れちゃって、英語になっちゃったのかも知れません。

頑張ってインパクトを与えようとしようとした結果なので、人間らしくてイイんじゃないでしょうか。

現に、初めて聞いた人は「え? エビ、海老でんす?なんやそれ?」ってなって、 不本意ながらも一度は意識をかたむけますからね。

でも例えば、上司が部下に「これ絶対にやっといてね」って言ったとして、 部下が「はい。わかりました!マストですね!」って答えていたら理解に苦しいです。 これだと、もはや自己アピール以外に伝えたい意図が分かりません。

まぁ、大事なのは、どうやって伝えるかではなく、何を伝えたいのかということですね。

 

意味を覚えるより背景を知ること

最近では、都政が「DXを強力に推進する」と言っていました。

DX...デジタルトランスフォーメーション?

IT用語も難しいですよね。

 

デジタルトランスフォーメーションDigital transformation, DX[1])とは、「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」という仮説である。

引用元:デジタルトランスフォーメーション - Wikipedia

 

でも案外調べると、言葉の意味としては、あっさり理解できたりします。

このような専門用語をひたすら覚えるだけなら、頭のいい知識人が議論している動画がYouTubeに沢山あるので、それを見ながら、分からない言葉を手元にあるスマホで調べていくと、あっという間に覚えてしまいますよ。

この場合、会話の前後の関係や、使い方のニュアンスまでキッチリ感覚的も理解できるので、無理して記憶しようと思わなくても、すんなり自分のものになります。

しかし

ここで問題なのは、はたしてこのような固有名詞を覚えたところで、新しい知識が手に入ったといえるのだろうかということです。

本当の意味で知識として自分のものにするのなら、その言葉がなぜ専門用語として生まれたのか? もしくは、日本語で同じ意味があるのに、なぜ横文字などにして言い換えているのかを理解する方が、その背景が見えてきたりします。

以前「多数派=マジョリティではない」と、このブログで書きました。

rojiuranojihanki.hatenablog.com

ここで書いたように、以前からあった言葉が、まるで新しい言葉のように、頻繁に使われるようになることもあります。

わざわざ言い換えるには、それなりの理由があり、単なる流行りもあれば、文化的な風潮や世論も隠れており、それらの背景を理解していることの方が、知識として身についているように思います。

 

おわりに

どうやって伝えるかより、何を伝えたいかと冒頭に言いましたが「何を言うかより、誰が言うか」という名言もありましたね。

つまり、方法よりも内容。内容よりも人。

この名言は色々な著名人が言っていますが、結局のところ人は人を見ているということではないでしょうか。

そして、伝えるべき人とは、世間から認めるられるような著名人である必要もないと思います。
親戚のオジサンやオバサンや、もしかしたら近所のお爺さんやお婆さんでも、自分の為になる事を言っている可能性は充分にありますからね。

 

疑って見るべき「インターネット」

はじめに

分からないことがあったらどうしますか?

親に聞きますか? 先生に聞きますか?

僕はたぶん、ネットに聞きます。

ですが、ググった情報が正確とは限らない。

それでも、間違った情報を信じてしまったり、思い悩んだり。逆に正しい情報と分かっていても、信じられなくて、疑ったりします。

今回は、そんな「インターネット」について考えてみました。

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インターネットに共感を求めない

インターネットを利用して沢山の人が、情報をアウトプットしています。

生活に何か迷いが出たら、すぐに調べることができます。

ただし、100%正解の情報はありませんね。

人は、自分に直面した困難を、他人の教訓から似ているものを探して共感させてるのだから、それが正解と思ってしまうのは当然です。

「やらないで後悔するぐらいなら、やる」という人は、やらないで失敗した人か、やって満足した人が共感して集まります。

「やって後悔するぐらいなら、やらない」という人は、やらないでも満足した人か、やって失敗した人が共感して集まります。

教訓としてよく耳にするのは前者ですが、これが正解ということではありません。起きている現象は「自分が無意識に行なっている似たもの同士達との共感」です。

例えば、インターネットで「仕事の悩み」と検索する人は、広告に転職サイトが出てきて「転職をするべきだ」という情報が人より多く目につきます。これで「やっぱり転職が大事なんだ」と思ってしまう人もいるでしょう。

このような現象は「カラーバス効果」と呼ばれるものに似ています。

「この情報は正解なんだ」などと思う前に一旦は現象のようなものとして、冷静に判断しておきたいところです。

 

「歪んだ複製」が多い

そもそも、インターネットに書かれた内容は、インターネットが作っていませんか?

例えば「Yahoo!知恵袋」あれは、まさにそうですよね。決して批判したいわけではなくて、質問の答えが、ほとんどネットで調べて答えた「大喜利」みたいになってるのは事実です。

インターネットで調べた情報を、またインターネットに書き込む。

その時、主観として新しいエッセンスやニュアンスを混ぜているのかもしれませんけど、新しいものが生まれてるというより「歪んだ複製」です。伝言ゲームみたいなものです。

その証拠に、自分が自信を持って答えられるマニアックな質問の答えを探してみたら、的を外していたので、なるほどと思いました。

インターネットに書き込む人は何かしら目的があって、発信欲が強い人や表現者であることが多いと思うので、そちらの方の主観が、知らずのうちに強めに偏っているのだと思います。

 

おわりに

大体の人は、何かに疑問があって調べる時、すでに自分の中に答えを持っていることが多いです。けれど確信できない。だから同じ意見を持つ賛同者が欲しい。

何かを信じるには根拠が必要ですからね。

でも、ここで重要なのは「同じ意見がある」ということは根拠ではないということです。

たとえ同じ意見がいくつあっても、納得させる材料にはなりますが「正しい」という証明にはなりません。

同じ意見を持った多数派が間違った判断をすることは、人類の歴史からみても明白です。

だからこそ、最初に抱いた根拠なき答えや直感がすごく大事であったりしますね。

 

 

選択の連続はそんなに重要?

はじめに

「人生は選択の連続である」

シェイクスピアの名言です。

勉強するのか遊ぶのか、起きるのか寝るのか。

ご飯を食べるのか仕事をするのか…。

日々、何をするにも人生とは選択の連続ですが、何気ない選択までもが、そんなにも重要なことなのでしょうか?

今回は「選択」について考えてみました。

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選択肢を増やしただけでは価値はない

子供の頃「勉強して頭の良い学校に行ければ、なれる職業の選択肢が増えるよ」って大人から言われた事ありませんか?

将来やりたい事ができるという事なんでしょうけど、 これは正しくもあり、間違ってもいるのかなと、今になっては思います。

例えば、子供に「晩ごはん何がいい?」と聞いたら「ハンバーグイイ!」と答えました。

でも「カレーとハンバーグどっちがいい?」と聞くと「ハンバーグイイ」と答えたんです。

これでは、さほど ハンバーグを望んでないように聞こえますね。強制的に選択肢を与えられることは「自ら選んだ」という自覚が薄れるのかもしれません。

実際に、高学歴で色々な職業を選択できる人材になれても、就職した後になって「自分がやりたい事はこれじゃない」と言って、起業する人もいるぐらいですからね。 だから僕が思うのは「選択肢から選択しないといけない」という決まりもないですし、 選択肢を増やすという選択をしただけでは価値はないわけです。

種類が豊富なパン屋さんを選択して行ったら、色々ありすぎて迷った挙句、オススメの新商品を選択して美味しくなかった、なんてこともあります。選択肢を増やしたところで、そんなもんですよ。

 

言うよりも語るよりも、動く人

選択肢から選択した後に、それをやるのか やらないのかの選択を迫られることもありますね。

例えば、オリンピックをするかしないか。

緊急事態宣言を出すか出さないか。

まだやっていない事をアレコレ言うと、それは口だけの人。

やってからの事をアレコレ言うと、それは結果論の人。

さて、どちらがいいのでしょう。難しいですね。どちらかと言えば、口だけの人の方がまだ いいかもしれません。その後、実行すれば良いですから。逆に結果論を語るだけで、その後も 何もしないのは誰でもできます。これでは 後だしジャンケンです。 後だしジャンケンに勝って喜んでいる場合じゃありませんね。もはや言ってからでも良いし、 やってからでも良いので、先に行動できる人は優れているように思います。

まぁ、実際のところ、世間は そんなに甘くないですけどね。

先に行動しても間違った判断なら叩かれます。 口先だけで語ったら「やってから言え」と言われて、思い切って行動してみたら 「やる前に言ってくれ」と言われることもあります。

でも、後になって結果論を武器に あれこれ語る人よりも、 先に立って行動に移せる人が優勢となれる社会であって欲しいです。

 

おわりに

皆がためらう事にも行動に移す選択をした人や、失敗しても実行するという選択を何度も繰り返した人だけが、選択できるものがあります。

選択肢は与えられるものではなくて、自分から積み重ねて見つけていくものなんですね。

 

必要な自尊心と不必要な羞恥心

はじめに

「自尊心」を辞書でひくと「自分を誇らしく思うこと」と出てきます。

そこまで重たく考える必要はないと思いますが、三十代後半をむかえた今「自尊心」は大事だなと思います。

歳を重ねると「自分の意見や考えが結局のところ最適だった」という場面が増えてきます。

例えば、主体性と協調性。自分本位と他人本位。普段の行いがどちらかに偏ると、周囲からは もう片方が大事だと指摘が入るようになります。

しかしそれは「間違っている」のではなく、中性、中和、中立という言葉のようにバランスを取ろうとする力が働いただけなんですよね。

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自尊心を大切に

たぶん、大人になることは、成長ではなく変化しているだけじゃないですか?

「私は成長してきました」

「君はもっと成長してください」

「みんなで成長しましょう」

なんか偉そうじゃないですか?

まるで、みんなが同じレールを走ってきているみたいな感じが、好きになれません。

子供は未熟者ですか?

息子が三歳の時に、仮面ライダーのモノマネをして、ポーズをとってキメ顔をしてきたんですよ。クスっと笑ってしまったんですけど、僕は後で「失礼だったな」と思ったんです。 人生で初めて芽生えた自尊心に傷をつけたのではないかと。

いや、ホントに。

それからは「もっと剣は高く持って、セリフを言ってから攻撃した方が、もっとカッコいいんじゃないか?」などと言っています。合わせているんじゃないですよ。

僕が思う「カッコいい」を伝えているだけです。

仮面ライダーの格好も、流行の服装も、全身高級スーツでも、カッコいいと思って着ているなら、根底にあるものは同じなんですよ。十代らしく、三十代らしく、五十代らしく?

いやいや「自分らしく」が一番イイです。

たしかに、変化はします。でも、成長なんていう偉そうなもんじゃありません。僕は、大人になって失ったものすらあると思っています。子供でも立派な一人の人格者。親の生き写しでもありません。

自尊心に傷をつけてまで成長したいとは思いませんねぇ。

 

羞恥心はいらない

恥ずかしいことって何で面白いんですかね。

俳優の佐藤二郎さんが、風呂場で過去の恥ずか しい出来事を思い出して、その場でまた恥ずかしくなって「ホイホイ、ワンモアタイム!」っ て奇声をあげる時があるんですって。

ワンモアタイム自体の意味はないらしいです。

いや~、自分だけじゃないんだと思って、ホッとしましたよ。

しかし羞恥心って、時にいらないですよね。

なぜ恥ずかしいと思うのかを調べてみたら「他者から期待されるイメージが逸脱したと感じたから」ですって。

これ見て、なおさら いらないなって思いましたね。

つまり、期待されたくない人達からのイメージを逸脱したい時には、恥ずかしいことをすれ ばイイってことですね。そうなってくると、恥ずかしいことをしても良い場面って、日常的に 結構あるなと思います。

有名なミュージシャンも「おまえを愛してるぅぜぇ~べぃべ~♪」みたいな事とか言っているし。

冷静に考えたら、メチャクチャ恥ずかしいことを言っていますよね。

それとも、夢追い人は世間から認められるまでは、すべて恥ずかしいことになるんですかね。

いや、もしかしたら恥ずかさってヤツは、可能性が満ちあふれる予兆なんじゃないですか?

 

あとがき

結局僕は「周りからどう見られるかを気にせず、自分らしく生きていくことが大事」と言いたいのですが、このような他人の言うことを聞こうとすると、自分らしくなくなるという可能性がありますよね。

例えば「人の話は聞かない方がいい」というアドバイスを取り入れたいと思ったら、その人の話も聞いてはダメですから。

「自分らしくしろ」と言われても「他人らしくすることが自分らしさです」と言えばいいんです。自分の答えは自分にしかないのですから。

 

分かっているけど解っていない

はじめに

アインシュタインの名言で

「6歳の子供に説明できなければ、理解したとは言えない」

というものがあります。

本当にそうですよね。大人になっても分かったつもりになっているだけで、分かっていないことも多いです。

そんな子供からの質問についてのエピソードをエッセイにしました。

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説明できなくても理解してる人

子供って、大人に たくさん質問しますよね。

僕には、ちょうど6歳の息子がいて、たくさん質問されて困ってしまう時があります。

僕自身が同じ歳ぐらいの時に、母親と手を繋いで信号待ちしてる間に「てつがく ってどーゆーいみ?」って聞いたことがありました。

だれかに「君の考えは哲学的だね」って言われて気になったんです。

母は直感型で、面倒臭い思想とか理屈や屁理屈は苦手、あるいは嫌いなタイプの人間です。 そんな人が子供に説明するために、絞り出した回答と思うと、これが結構 面白いんですよ。

「この信号が青になったら、右足から歩こうか、左足から歩こうか、それを今から考えるような事だね」って言っていました。

これ、秀逸すぎませんか?

それで思ったんですよ。 歴史的な思想家とか哲学者とか、何でもかんでも ややこしくして明言に したためてますけど、うちの母みたいに直感的に生きてる人達が、実は もうとっくに感覚的に理解している事を「はいはい、コジらしちゃってんのね」と理解してあげているから成り立ってるみたいなところは、少なからずありますよね。

 

固定概念をぶち壊したい

今日、六歳の息子が「パパ、どら焼き と 地球 どっちが大事?」 と聞いてきました。

僕は「地球だね」と答えました。

「なんで?」と聞かれたので「地球がなかったら生きていけないし、どら焼きすらも食べれない」と言いました。

そしたら、息つく間もなく、息子は こう返してきました。

「じゃあ、隕石が地球に落ちてきたら、ロケットで宇宙に逃げるよね? 地球は無くなるけど、ボクは どら焼きを持って行ったから生きてるよ」

ビックリしましたね。 どこかで聞いた話かと思って、色々聞いたのですが、瞬時に ひらめいた作り話だったようです。 理屈なのか屁理屈なのか、哲学的なのか。

しかし、すぐに地球と答えた大人の固定概念。

ぶち壊したいですね。

 

おわりに

「分かっている」といってもは「解ってない」ことがあります。

Know と Understand 。

子供の時は分からなかったけど、大人になったら分かるみたいなこともあります。 後悔する前に教えてよって思うかもしれませんけど、大人達は何度も伝えているはずなんです。

例えば「歯は一生ものだからしっかり磨いて大事にしなさい」と言われてたとしても、 若者にはピンと来ないし、響かないですよね。年老いて、虫歯とか歯茎が弱ったりとかして、 「あぁ、あの時もっと大切にすれば良かった」なんて思うのは、よくある話で。

これは どんな人でも必ず経験しなければ「解る」ことが出来ないんだと思います。 まぁでも、分からなくてもイイんですよね。

「昔、よく言われたな。こういう意味だったのか、今ようやく分かったよ」 と覚えていればイイんです。 気づくのが遅くなったとしても、その言葉のおかげで、何倍にもなって心に染みて感じれたら イイですね。

むしろ、その時の為の言葉なんだと思います。

 

人間関係について考える

はじめに

ストレス社会といわれる現代では、悩みを抱えた人も多いです。

「悩みごと」と調べると大体のアンケート調査に「人間関係」の悩みが上位に入っていますね。今回はそんな「人間関係」についてのエッセイをつづりました。

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迷惑と幸せは存在している

「人に迷惑をかけてはいけません」

たしかにそうですね。

人は生きているだけで、誰かに迷惑をかけています。

なのに、もっと迷惑をかけて何かしようとしているのですから。

でも、人は生きているだけで誰かを幸せにもしています。

そして「誰か」とは自分自身も含んでいます。

なのに、もっと幸せになりたくて何かしようとしています。

迷惑と幸せは生きているだけで存在しています。

だから日頃から「誰かに迷惑をかけてないか」と心配したり 「誰かをもっと幸せにできないか」と気を張りすぎる必要もないですね。

自分が好きなことに夢中な時に「これは誰かの迷惑ではないだろうか」と少し考えるくらいで ちょうど良いです。

それが本当に好きな事ならば、必ず幸せとなるので、その幸せを別の形に して、身近な人に分けてあげれば良いです。

そうすれば、多少の迷惑すら、こころよく受け止めてくれるはずです。

 

どんな人にも相性はあります

人には相性というものがありますね。

これは人に限らず、全ての動物にさえ言えることかもしれません。

中学生の頃、僕と相性の悪い英語の先生がいました。この先生は「みんなも頑張ってるんだ からオマエも頑張れよ」というのが口癖でした。

ある日、その先生が掃除の時間にサボっている僕の友達に対して「みんなもやっているんだ からお前も雑巾掛けしろ!」と言いました。

そして、土下座するみたいに床に手をついた生徒 を上から見下ろす先生の姿を見て、これは絶対におかしいと思いました。

僕はその時、本当に虫酸が走って、わざと先生の目の前で雑巾を置き、足で拭いて見せまし た。一生懸命に足で隅々まで床を拭いて見せました。そしたら案の定、怒ってきました。

「お前ナメてんのか」と。

「自分の家でもそんな風に拭くのか?」と言ってきたので 「はい。この方が汚れがキレイに落ちますので」と言いました。

この時の先生の苦虫噛み潰したような顔は忘れてません。

ただし、これは相性の問題であって、人が悪い訳ではありません。

実際に、この先生と相性の良い生徒もいました。

そしてその一方で、僕には相性の良い国語の先生もいました。 だから僕は、その先生に このような質問をしました。

「自分の行為が正しいか正しくないか迷ったら、どうやって判断すればいいですか?」

すると先生は、こう答えました。

「それと同じ行為を世界中の人々がおこなっても、社会がうまく回るなら、それは間違ってはいないと思う」

僕は世界中の人々が足で床を雑巾掛けしても、それでも社会はうまく回ると思います。

 

上辺だけの関係で何が悪い?

人に対してイライラしてしまう事ありますよね。

自分とかけ離れている価値観と衝突するこ ともあります。相手を負かしてやりたいという本能が湧いてしまう事だってあります。 まぁでも、こう思うのも若いうちだけでしょうか。歳を重ねていくと、関わらなければいいか と思えば大体のことは腹落ちできるようになれる気がします。

それでも関わらなければならない人間関係もありますか?

それは一体どんな関係なのでしょう。

だれが決めたのでしょう。

人は一人では生きていけない。これはあたり前のことですが、関わらないように生きている と案外、孤独を味わえるほど、独りになれる社会でもあります。

上辺だけの付き合いってのもイイもんです。極めて素直にそう思います。

相手も自分も明るくいれます。

「それだと困った時に助けてくれないよ」なんて言う人もいますけど、困った時のための付き合いなら、それこそ上辺の関係ではないかと思うわけです。困った時こそ上辺だ けで助けられる範囲で構いません。

仮に僕が重い病気にかかったとして、上辺だけの人に「俺 の血を使ってくれ」とか、いきなり言われても怖いです。

とは言え、僕にも いざとなったら血を分けてでも助けたい人はいるのですけれど。

 

おわりに

人間関係に縛られる必要はありません。距離を取ることも大切です。

仮に物質的に距離を取っていたとしても、人それぞれ心の距離は全く違っていたりします。

「遠距離恋愛」って言葉もあります。仲の良い友達ほど「何十年ぶりの再会」ということもあります。毎日一緒に過ごしていた大切な家族とも、お盆や正月にしか帰らなくなってしまうこともあります。

少し冷静に考えてみると、今悩んでいる人間関係の人よりも、大切にすべき関係の人は沢山いますよね。自分にとって大切な人間との関係を大事にしましょう。

 

座右の銘と言葉に隠れたモットー

はじめに

「座右の銘」は英語で「motto」

"座右の銘"を周囲に公言する人がいますが、それとは別に、モットーというのが隠れていることがあります。

そんな「座右の銘」と「モットー」についてエッセイをつづりました。

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座右の銘は、ありますか?

僕は好きな言葉はありますけど、座右の銘は決めていないですね。

座右の銘を語ったり、他人へ強要するのも好きではないです。

ちなみに、今まで聞いた事ある人の座右の銘は、当人のイメージと真逆で、どれもピンとこなかったです。

例えば「雨降って地固まる」って言っている人が、揉めごとを避けてきた平和主義者だったり、いつも眉間にシワをよせている人が「笑う門には福きたる」って言っているわけですよ。

だから一見、らしさや信念を述べたつもりでも、願望や憧れのほうが強いのかなと思います。

好き勝手にさせてくれよ、と言われたらそれまでですが、間違いなく必要に迫られて作るものではないですよ。

そのようにしてできた座右の銘とは、どれもこれも自らを鼓舞するための意味合いが強すぎます。

自分を奮い立たせる言葉を持ち続けるのも結構ですが、その言葉と矛盾しないように行動していくことは、逆に足かせになっているようにしか思えません。

人生のあらゆる場面で使える万能な言葉があるのなら、僕も出会ってみたいものです。

 

おかしな言葉に隠れたモットー

レジでお金を受け取る時「1,000円からお預かりします」と言うのは日本語としてオカシイって言いますよね。あとは、レストランの店員が「以上で宜しかったですか?」とか言うのもオカシイみたいですね。

でも正直、僕は全然気にならないです。伝わればいいんじゃないかなと思います。

僕が寛大だなんて事を言いたい訳じゃないですよ。人それぞれ気になってしまう言葉が違うようなんです。

知り合いに「つもりだった」って言葉が嫌いな人がいます。「〜していたつもりでした」というセリフ。 つもりじゃなかったら何だったんだ、と思うようです。

たしかに、使ってしまう気持ちは分かりますが、この場合、言い訳以外の意味がないですからね。

実は僕にも引っかかる言葉があるんですよ。「私の中では、こう思います」という言い方。 僕も使ってしまう時ありますが、「の中で」という所が引っかかります。

「思う」って事は 「私の中」からしか出てこないので「の中で」は要らないはずですよね。私の中以外から思うことは出来ませんから。

たぶん、この言葉を使う人は、日頃から無意識に「他人の中の思い」を自分の思いとして話す ことがあって「(今回は)自分の中で」と言っているのか。

それか「(あなたの思いは知りませんが)私の個人的な思いとしては」という保険。 いずれにしても、良く言えば優しい人で、悪く言えば気にしすぎの人だと思います。

「私は、こう思います」で良いですよね。

僕の場合、自分に足りないところだから気になるんだと思います。

こんな感じで、自分だけが引っかかる言葉ってのは、自分のコンプレックス、もしくはポリシーやモットーみたいなものが隠れているのかもしれませんね。

どうでしょう。引っかかる言葉、ありますか?

 

おわりに

いかがでしたか?

このように意識的に言葉にすることで、そうなろうと努力することもあれば、無意識のうちに拘りが言葉に現れていることもあります。

言葉は面白いですね。

 

サイエンスフィクションが好き

はじめに

もし死後の世界があったら、もし未来が決まっていたら、もしタイムスリップできたら...

そんな「もし」という架空の物語が僕は好きです。いわゆる、SF(サイエンス・フィクション)ですね。今回は、そんな「もし」の話をつづりました。

明確な根拠はないのだけれど、論理的には間違っていないような。そんな感覚になりながら書いてみました。

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死後の世界

人は死ぬとどうなるのでしょう。

「無」ですかね?

そんなことでは面白くないので、仮に死後の世界があったとして、いわゆる天国みたいなところです。それでも、死にたくはないですよね。

なぜ人は死にたくないのでしょう?

例えば「このボタンを押すとあなたの記憶は全て消えます」と言われて、目の前でボタンを 押されたら、死にはせずとも その悲しさは もはや死を意味しませんか?

もう一つ例えてみますね。

もしあなたが昏睡状態で、何日間も長い長い夢を見ていたとして、夢の中で色々な人と出会い、友人や恋人、幸せな家庭を持ちます。

もう一つの世界の誕生です。

でもある日、これは夢だったんだと夢の中で気づいたら、夢の中の大切な人達と別れたくない と思ったあなたは「目を覚ましたくない」と思ったりするかもしれません。

すると、その夢の世界において、目を覚ますことは、死を意味しませんか?

現実には息を吹き返したのに、死んでいる

不思議ですね。

 

ビッグバン

この世は、どのようにして始まったか。

ビッグバン? たしかにそうかもしれません。 だとしたら、僕の理屈だと、もうすでに未来は決まってるようにも思います。

例えば、ボールを床に落としたら跳ねますよね?どれくらいの高さから落とすのか? ボー ルの弾力は? 床の硬さは? 風向きは?

全てを解っていたら、床を落とす前に、物理的には、 もう結果は決まっていませんか? これがボールではなく卵だとしても、かなり複雑な計算となりますが、落とした瞬間に卵はどのようにして割れていくのか、じつは決まっていますよね。

ビッグバンが起こる前、私たち人類も地球も銀河系も、一つの点で、爆発後に膨張し続けているとなると、それはボールや卵と同じではないですか?

僕たちはこれから何をするのかも、想像を絶する莫大な法則と計算によって決まってるのではないかと思うんです。

僕たちの意思も、 宇宙からしてみれば、物理的な「動作」の一つかもしれませんから。

どうなのでしょう。誰にも解りませんね。

まぁ、決まっていたとしても、それが何だって話です。

 

タイムトラベル

過去に戻りたいと思ったことありませんか?

でも、本当に戻ったらどうなるのか真剣に考えてみようなんて思わないですよね。

例えば、あなたが宝くじを買った帰り道に、事故で大怪我をしたとします。

でも、その宝くじは大当たりでした。

「あの事故さえなければ...」

そう思ったあなたは、宝くじを買った直後に タイムスリップすることにします。

別の帰り道を選んだあなたは事故を 回避することができました。

ところが、宝くじは当たっていませんでした。

人生には、良いことと悪いことが無数に交差していて、悪いことだけを変えることができない。ゆえに、悪いことがあるから良いことがある。

すみません。あたりまえですね。

 

おわりに

いかがでしたか?

本当の真実は誰にも分からないので、正解はないのですが、その正解がないものを考えていくことが面白いですよね。

そして さらにストーリー性を持っていたりするとSF映画や都市伝説のような話になっていたりします。表現の世界として魅力的ですね。

 

大人になっても作文を書こう

はじめに

最近、雑記のような文章を短時間で1,000字ほど一気に書き込むことが、週に一度ぐらいの周期でおとずれます。このタイミングは一度逃すと同じ文章を書くことが難しくなるため、決して逃してはならないと分かっています。

一心不乱に書き記したその文章は、第三者から見て正しいと思うのか、間違いと思うのかは別として、通常の自分を一歩超えた表現力が瞬発的に発揮されます。

翌日に、その文章を読むと「なんじゃこりゃ」と思いながらも、昨日の自分は なぜそれを書き記し、なぜそれを最適解としたのか、今日の自分では、もう理解不能となることもあります。

しかし不思議なことに、今日の自分では到底 思い浮かぶことのない優れた表現だと思うこともあり、まるで他人の文章を読んでいるかのように、それを楽しんでいるのだから笑えます。

だから、没頭して生まれた文章を、次の日の自分に読ませてあげるのは、最高に面白い作業です。究極的な自己満の世界ですね。

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自分らしい文章を残す

ここまで文章を書き続けているのは人生で初めてです。

同じような表現もありますが、伝えたい事に変わりは無いので、似た内容になってしまうのは仕方がないのかもしれません。自分の文章を客観的に読んでみると、世の中の矛盾とか、多数派意見への疑問とか空想や隠喩(メタファー)などが多いのかなと思います。

文章を書くと自分でも知らなかった自分の事が見えてきますね。出来るかぎり僕は「自分らしい」文章を書き残しておきたいです。

自分らしいというのは、他人らしくないという意味でもありますが「みんながAなら僕はBなんだ」という偏屈を述べる気はありません。

学校で作文や日記。好きな人へのラブレター。仕事では報告書。人は生涯に文章をどれだけ書いているのでしょう。

別に文学に精通する者でなくとも、相当な量を書いています。その中からすれば、たったの数万字、このような文章も書き留めておいたところで、そう特別な事でもないのかもしれません。

 

文章には言葉にはない魅力がある

もちろん文章は書くだけでなくて読むことも大事ですね。本って、たまに読むと良いですよ。

会話も良いですけど、言葉は添削できないんで、文章だとムダを削ぎ落とした感じが新鮮です。飾られすぎると良くないですけど、エッセイのような柔らかい文章なら良いですね。

硬い文章だと、教科書みたいですよね。教科書って正しいことが書いてあると思って育ってきていませんか?中年の僕には疑って見てしまいます。でも実際、教科書すら間違えてることがあるらしいです。頭の良い子というか、ギフテッドのような子供は、当たり前のように間違い を指摘するそうです。先生も困ってしまいますね。

そもそも教えるための本ってのも、どうなんですかね? 内容は全て人間が勝手に決めたものですよ。作者の心情を述べよ、みたいな押しつけがましい「教科書」じゃなくて、気持ちを共感しよう、という「共感書」というものがあれば良いですね。

冗談です。

 

文章に解説はいらない

「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」

金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」の最後の二行。 これも教科書に載っていましたよね。 この作品の解説というのを読んだら「私」を最後に書くことにより 「鈴」という無機質なものにも尊さを感じさせ... と書いてありました。 その通りで良いと思いますが、このような解説って要らないですよね。

どんなに賞賛されて同調する人が多い作品でも、自分の感性は持っているべきですよ。

僕は「みんな違って、みんないい」じゃなくて「みんな違ったほうがいい」の一言の方がシックリきます。否定じゃないです。

金子みすゞさん、素敵ですからね。

 

おわりに

そういえば先日、タンスから12歳の時の卒業文集が出て来て、懐かしい友達の作文も読んでみたんですけど、面白かったですね。

子供の作文とは思ないような表現力でした。どんな人も文章を、沢山書いたことがあるはずですよ。ちょっと試しに書いてみたらどうでしょう。新しい自分が見つかるかもしれませんね。

 

数値はないが、成果はある

はじめに

世の中には様々な「成果」がありますが、その成果を表すために有効なのは「数値」です。

成果を数値で表すと、学力なら偏差値。スポーツなら得点やスコア。沢山の成果が数値化されています。

中でも社会で密接に関係しているのは「お金」による成果ではないでしょうか。

学生時代は色々な場面で数値的な成果をもらいますが、一歩社会にでれば、いつの間にか給与所得という成果一択になっていないかと思ってしまうのは、僕だけでしょうか。

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給与なら売上。気持ちなら気持ち。

従業員は、企業から給与として金銭をもらうので、その代わりに売上や利益などの数値的な成果を求められます。

企業側が労働者の成果を、給与が多いか少ないかの一次元の"数値"で表して評価するため、対する労働者側の労働も売上や利益といった"数値"で成果を表さなければと評価はされないと ならざるを得ません。

これは仕事以外でも似ています。

親が子どもに「テストで100点をとりなさい」と言ったなら「100点をとったらお小遣いで1,000円ください」と子どもが言い返しても不思議はありません。逆に「テストを頑張りなさい」とだけ言ったなら「50点だけど、頑張ったんだから褒めてください」と言い返しても筋は通ります。

「数値が欲しいなら数値で返せ」

「気持ちが欲しいなら気持ちで返せ」

これは言い換えてみれば、数値でしか評価しない者には、数値でしか表せない成果しか返ってこないということ です。給与というお金の数値だけでの評価ならば、売上という数値を生み出す成果だけのお返しですね。

つまり、インセンティブを前面に打ち出した組織が生むものは「お金を増やしてくれたらお金で返す」と集団で合意したシンプルな利害関係です。

 

仕事がゲームなら、成果はレベル

そもそも「成果」というものは、数値で表すことができないものはおろか、目に見えないものが大半です。

ロールプレイングゲームで例えるならば、レベルアップは"成果"です。レベルが上がれば、強くなったことが数値で明らかになります。

しかし、レベルが上がったことを数値で表示せず、それをプレイヤーが知らなかったとしても、主人公が強くなっているという事実は変わることなく、ゲームを成立させることも可能です。この場合でも、目に見えないだけで"成果"は存在しています。

成果は成果。数値は数値。

「数値に変えなければ成果になっていない」というのは勘違いであり、落とし穴です。それでも人は、目に見えるカタチで数値化した尺度を欲しがります。感覚値だけを頼りに成果を認めてあげるためには、相当な量の自信が必要だからです。

なので、目的達成できる有能な人間ほど、対価を目的とした"労働"という枠組みに限らず、日常の無意識下で、数値変換の不可能な成果を積み上げているのかと思います。

 

まとめ

  • 数値に惑わされず、目に見えない成果を信じる
  • 数値を求めることは見返りも数値でしかない

 

SNSへの考え方が変わった

はじめに

僕は、2021年2月にインスタグラムにて、イラストのアカウント@tetsu.graffitiを作りました。

ここでグラフィティと呼ばれるストリートアートと、自分の思いをつづったエッセイを載せることから、書きものを通して表現していく楽しさを知りました。

「書くこと」と「描くこと」も好きな自分にとって、落書き(グラフィティ)×作文(エッセイ)は、思いをカタチにする最高の表現方法なのかもしれません。

このインスタグラムの活動によって、SNSへの見方もガラリと変わりました。そんな心境をエッセイに書いたことがありました。

せっかくなので、こちらにもまとめて、記載しておきたいと思います。

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SNSに眠る才能

インスタグラムには才能を持った表現者が眠っています。

本当に驚くほどいますよね。

インスタグラムだけではなく、以前からあるFacebookや、インスタ以後に生まれたTikTokなども同様に、SNSによって、芸術作品のアウトプットが容易になりました。

ほんの数年前までは、お金を払っても見れることのなかった素晴らしい作品が手のひらの画面で見れるようになりました。

僕は表現の世界が急激な広がりを見せていると思っています。

そしてそれが、あまりにも急激なので、自分の作品は普遍的なものだと勘違いする人もいるようにさえ思います。

でも実は、使い古された教則本では説明のつかないような独自性のHOWTOが詰まっています。

こんな事を考えていると、これは僕だけの「思い込み」なのかな、と思うこともあります。

でもやっぱり、思い込めないと、ワクワクするような事はできませんよね。

 

SNS疲れ=好きなこと疲れでは?

「SNS疲れ」とかって言いますよね。

でもSNSは、ぜんぜん悪くないと思うんですよ。

むしろ、とてもイイんじゃないかと思うわけです。

フォロワー数とか関係なく、ホントにスゴい人達が眠っていませんか?

何か技術がすごいとか、優秀とか、有名人とか、そういう所だけ じゃなくて、世界観とか、人柄やセンスの方でも共感したり、すごいなと思いイイネを押していることが多々あります。

僕はシャイボーイなので、書き込みを遠慮することはありますが、ジャンルを問わず、自分の世界で毎日を楽しんでる人を見ると、ワクワクしてきます。
問題なのは、本当に好きなことをしているか、ということだけですよね。

自分の好きなことで、共感してくれる人がいる。それが嬉しい。それは当然ではないかと思います。

好きなことではないのにイイネが欲しい。

それはたぶん「SNS疲れ」

好きなことだからイイネが欲しい。

それはただの「好きなこと疲れ」

本当に好きなことならば、疲れるほどにまで、やっちゃいましょうよ。

 

「イイネ」っていいね

電子マネー増えましたよね。

最終的に現金はなくなるんですかね。

そうなるとお金って何でしょうね。

仕事すると給料として銀行口座に数字だけ増えて、商品を買うと減る。 数字上だけの話なんで、ゲームの「ゲージ」みたいですね。

この前、どっかのお店で「インスタで当店を紹介してくれたらフォロワー数分の代金お値引き します」ってサービスしてたんですよ。

もはやそんな感じで、お金ってやつも「イイネ」と一緒ですよね。

月に一回、社長から、よく頑張っててイイネーって言われて貰える「三十万イイネ」

毎週、買い物するスーパーで「この食品売ってくれてイイネーって言って渡す「一万イイネ」

同じ意味なんですけど「お金」って言うとちょっと汚いイメージもあります。

でも「イイネ」って言うと、どうですか?

おぉ!なんか イイネー!

 

おわりに

SNSは最高のアウトプットツールになると思います。

インターネットによる情報化社会であらゆる情報のインプットが容易になりましたが、それを踏まえた自分の表現もまた、SNSを通してインターネットで世の中にアウトプットされます。

するとインプットとアウトプットの激しい相互作用で新しい表現や新しい文化が生まれます。

それは本当にワクワクすることですよね。

 

仕事ごときに努力しすぎ

はじめに

会社員とは、1日8時間労働が一般的ですね。

寝ている時間をのぞくと、人生の大半を仕事に費やして生きていきます。

そう考えると、仕事とは さぞかし大層な存在なのだろうと考えてしまいがちですが、果たして本当にそうでしょうか。僕はその考え方自体が間違っていると思っています。

今回は、そんな「仕事について」をブログつづりました。

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やりがい搾取って何?

日曜日の夕方は憂鬱ですよね。

サザエさん症候群」になりながらも頑張ってる方も沢山いると思います。

嫌いな事なのに無理して「やりがい」探してませんか?

残念ながら、探しものは見つからないと思います。

僕も、仕事はお金を貰っているので真面目にやっています。でも「やりがい」だけは探したりしません。

「やりがい」ってヤツは本当にクセモノですね。

まぁ、僕なんかの言葉では説得力に欠けますので、ここからはWiki様が説明します。

 

やりがい搾取(やりがいさくしゅ)とは、経営者が支払うべき賃金や手当の代わりに、労働者に「やりがい」を強く意識させることにより、本来支払うべき賃金(および割増賃金)の支払いを免れる行為をいう。

引用元:やりがい搾取 - Wikipedia

 

こんな言葉があったんですね。

僕だけが気づいちゃったのかなと勘違いしていました。

世間にはもう既に認知されていたという、なんとも切ない結果に。

でも、これだと経営者が悪い感じですけど、労働者側が勝手に、やりがいを探しはじめだして自爆していることもあるので気をつけたいですね。

それに、この時世柄、経営者がリスクを背負っていることは、労働者の僕でさえ、ニュースを見てて痛感していますから。

 

モチベーションという言葉

空高く飛んでいる鳥を見て「あの鳥、モチベーション高いなぁ」って思いますか?

芝生で走り回っている犬を見て「あの犬、モチベーション高いなぁ」って思いますか?

モチベーションという言葉は、間違いなく仕事から生まれましたね。もっと言うと、会社という組織から生まれました

「君が上がっているのはモチベーションじゃなくてテンションだ」と言っている人がいました。長期的なのはモチベーション、一時的なのはテンション、とでも言いたかったのでしょうね。

でも、いつだって鳥は空高く飛ぶし、犬も走っています。

彼らはモチベーションなんか無くたって長期的です。僕の解釈はこうです。

理性的なのは「モチベーション」

野生的なのは「テンション」

僕は野生的なのが好きです。理性でコントロールできる程度のヤル気なんて、鼻クソです。

 

仕事脳はクソつまらない

仕事での習慣とかマインドを、家庭やプライベートに持ち込むのは良くないです。

例えば、お金稼ぐ仕事ってのは、どんな職業でも「生産性が高い」とか「費用対効果が悪い」とかって話をします。こうした損得に固着した考えってのも仕事特有なんですよね。

この前、サランラップの端が分からなくなって「どこにあるんだよ!」って爪でカリカリ格闘 しました。よりによって出勤前の朝に。それで15分ぐらい経った時に思ってしまったんです。

「いや待てよ。もし俺の人件費が1時間で激安の1000円と仮定しても、ここでサランラップと 分格闘してしまったら、250円の損失だ。サランラップは最安値で200円。ならば 俺はここで使い途中のサランラップを潔く捨てて、今すぐに出社し、効率の良い仕事して 分 早く帰宅すれば、より生産性が高いと言えるのだろう。いいや違うな、使い途中のサランラッ プの原価の損失を忘れていた。半分ほど残っていたアイツは減価償却を含めて100円に値する。正しくは350円の損失だ。ならば俺は23分までは格闘する価値があるという計算だ」

どうですか? この思考。

損とか得とかの前に、こんな考え方、クソつまらないですよね。

 

おわりに

「人生の半分近くは仕事しているのだから…」と話す人も多いのですね。

しかし、どこからが仕事で、どこからが自分の時間なのかなんて明確な区切りはありませんよね。

他人の指示で動いているといっても、それを選択しているのは自分なのですから、すべて「自分の人生の時間」という一区切りに収まってしまいます。

そうした意味を込めて、自分勝手に「仕事」という区切りの概念をもって仕事していること自体にナンセンスを感じます。

だから「仕事ごときに」と言いたくもなりますね。