意味を考える意味はあるのか
はじめに
社会に出たら「なぜ?なんで?」とかスゴい意味を求められますよね。そもそも意味が存在してから始まるモノゴトってあるんでしょうか。モノゴトから意味が生まれるのではなくて?
お金を生む仕事。仕事が生むお金。
さて、どちらなんでしょう。
同じ意味? いや、似て非なるものだと思います。
今回はそんな「意味」について考えてみました。
そもそも、意味の存在とは主観なので、他人に証明すること自体が不可能です。ということは証明させる必要もないなと思えますね。
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意味の存在は説明できない
このようなブログの文章も、SNSなどにアップした写真やイラストも、そして何気ない日常も、人は何かにつけて意味を求めすぎていませんか?
がんばる意味。たのしむ意味。生きる意味。
意味があるのか無いのか、そればかり考える時ほど、意味のないものが生まれていたりします。
逆に、意味がないと思っていたものから、大きな意味が生まれることもあります。
そもそも、どんな仮説を立てようと、世の中に意味の存在を論理的に説明する術はありません。
ある人にとって無意味なものが、別の人には意味があるものになりえるのですから。
意味は無くても自分にとっての価値があります。
それで充分、絵を描くことも文章を書くこともできるはずです。
他人には意味がなくてもいい
二十歳の頃、バイクで 約9,000km(青森県~鹿児島県)野宿の旅をしたんです。
その時に色んな人に「それやって何か意味あんの?」って聞かれました。 意味があるから行くわけじゃなかったので、返答に困りましたね。
モノゴトは、意味がないとやってはいけないなんてことはないと思うんですよ。
有吉弘行さんの名言で「海外旅行で人生観変わるような馬鹿は、渋谷に行っても人生観変 わっちゃうコンニャク野郎だよ」っていうのがあるんです。面白いですよね。
猿岩石で自分自 身も旅して、人生観が変わったであろう人が言っているわけですから、海外旅行の否定じゃなくて、最初から人生観の変えるって意味合いで海外へ出かけようとするのは、浅はかだよってこ となんですかね。
最初から意味が生まれるという目的意識ではなく、他人から見れば全く意味がなくても、行動すること自体に意味があるのでしょうね。
あとがき
やりたいことをやろうとする理由には、意味がいらないということですね。意味のためにやるわけではないので。
他人からみて、何のためにやっているのか分かってしまうような行動は、逆に当たり前すぎることで意味を見失うのだと思います。
例えば、生きていく為には、ご飯を食べることは意味がある。ご飯を食べる為には、お金が稼ぐことは意味がある。お金を稼ぐ為には、会社へ行く意味がある。会社に行く為には毎朝満員電車に乗る意味がある。
こうした当たり前すぎる意味の連鎖を続けていくと、人生のストーリーとして俯瞰してみると「これは一体なんの意味があるんだ」などと思ってしまうのでしょう。
意味があるからやろうとするのではなく、やろうとするから意味が生まれる、僕はそう思っています。
マジョリティと多様性の時代
はじめに
サイレント・マジョリティというと、最近ではアイドルグループの曲がパッと浮かんできますね。
ところが、この言葉は1960年代に主に政治の場面で使われていたみたいです。
サイレント・マジョリティ ( 英: silent majority )とは、「静かな大衆」あるいは「物言わぬ 多数派 」という意味で、積極的な発言行為をしない一般大衆のことである。
一方で「多様性の時代」という言葉も最近よく耳にしませんか?
しかしこの「マジョリティ」と「多様性」というキーワードが目立つ現代に対して、少し違和感を感じます。
僕なりの解釈でまとめてみました。
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マジョリティ=多数派ではない
本来、人それぞれに人の数だけ答えが存在するのですが、民主主義である以上、多数意見が力を持ちます。
それゆえに「多数意見が自分の意見」と勘違いし、惰性に任せる者が現れる。僕はそれこそが「マジョリティ」の定義だと思います。
例えば、100人にAかBかを選択するアンケートを実施した結果、Aが40人でBが60人だったとします。事実上はAが少数派でBが多数派です。
しかし、このアンケートを50人ずつ行うとします。すると、最初の50人の結果の比率は同じく、Aは20人でBは30人です。
ところが、残りの50人にはこの結果を伝えた上でAかBかの選択をさせると、冒頭に述べた「多数派意見が自分の意見と勘違いする者」が現れて、Aが15人でBが35人というように違う結果となっていたりします。
この場合、合計の結果は、Aが35人でBが65人となります。増えたBの5人はどこからきたのかといえば、100人に聞いた時の少数派側に該当するのですが、50人ずつ聞いた場合は多数派側になっています。
つまり 実際のところ、この5人は少数派ではなく、多数派でもないと判明します。では、このような者達を何と呼んで表したら良いのだろうかと思うわけです。
自らの選択意識がない「マジョリティ達」と呼んで不自然はないですね。
そしてさらに、このようなマジョリティ達は、少数派に強い権力者がいる場合には、そちらに寝返ったりします。票が多数という意味ではなく、優位性が多いか少ないかを見ているわけですね。
そんな"多数派に流される多数派"が指摘される一方で「多様性の時代」と言うのですから、この相反する二つの言葉に違和感が生まれたのですね。
なぜ多様性という言葉を使うのか
なぜ多様性という言葉を使うのか
社会科学・人文学における多様性概念多様性が社会の変化と発展に不可欠な要素とみられることがある。たとえば、グローバリゼーションなどにより、特定の文化や地域の持つ問題解決的発想の喪失などのデメリットが憂慮されることから、文化多様性・地域多様性などの概念が用いられている。
引用元:多様性 - wikipedia
これからは多様性の時代なのだと言いますが、国籍や人種、価値観や宗教など、これらは元々どんな時代にも多様にあったハナシではないですか?
インターネットの普及をはじめとするITの発展により、それらが情報として可視化されただけではないのかと思うんです。
一方で、今までになかった新しいテクノロジーと、それが生み出した文化も多様ですね。僕が小学生だった三十年前には存在しなかったものです。ちなみに、多様に進化しているのに、学んでいる内容が昔と大差がないのもオカシイ話ですね。
つまり、これまでにも存在してきた多様と、新しく生まれた文化的な多様も ひっくるめて「多様性の時代だ」と言っているわけです。
ここまで幅を利かせられる「多様性」とは便利な言葉ですね。
「イイネ」「みんな違ってみんなイイ」
ここに仲間入りするであろう「多様性」という言葉。
ワタシはワタシで理解して、アナタはアナタで理解する。いっけん、俯瞰して客観視できている感じを出せてしまうのも万能で便利といえますね。
現代ではスマホひとつでも、自分の好きなものだけのコンテンツ、自分の好きな人とだけのつながりが容易ですから、各所で小規模なコミュニティが生まれて、個性が伸びていくのは当然のことのように思います。
その個性というものを、民主主義が生んできた大規模なマジョリティ達では理解することができず、その理解を無理に当てつけた表現として「多様性」という言葉を人々は使うのではないでしょうか。
まとめ
「人それぞれ」という考え方
はじめに
事実は ひとつしかありません。
しかし 考え方は人それぞれです。だから意見の相違が生まれるのですが、判断に必要な事実や根拠を集めていくと、論理的にモノゴトを捉える者同士の考え方は似てくるものだと考えています。
僕は論理的思考が好きですが、思考のスピードが速い訳ではないので、人よりも早く論理の結末にたどり着けるわけではありません。
ただし、まわりの人が「もういいよ」と言っても、自分だけは飽きずに、懲りずに、考え続けていられるタイプです。
そんなふうに僕が考えた論理が、自分のいる場所と全く別の場所で似たように存在していたりすると、論理の行きつく結論は限られているのかなと思えてしまうことがあります。
だから、事実や根拠を理解しようとする前に「人それぞれだね」と言って、分かったフリをしてしまうのは、間違いかもしれませんね。
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判断には特性の理解が必要
モノゴトは千差万別なのだから、良し悪しの判断は「そういう特性である」と受け止めてからでないと不可能なはずです。
たとえば「青信号だから渡っても良いのか悪いのか」という判断は「周囲の人や車が赤では止まって、青では進んでいる」という特性を理解しなければ判断できません。
すると、赤でも進んでくる車がいるのならば、歩行者は青だからといって進んでも大丈夫だという事にはならないと分かります。
あたり前のような話なのですが、意外に特性の理解を万人はおろそかにしがちです。
この人は良い人か悪い人か?この食べ物は良い物か悪い物か?
そのようにして判断してしまった上で、後から都合よく特性をコジつけてしまうという現象のようなものです。
世の中には、簡単なロジックから難しいロジックまで存在します。
これは必ず存在します。
それでも無いと思えるのは、それが複雑すぎて人間にとって理解不能なロジックだからです。その理解を嫌う者や理解に苦しむ者もいます。理解を諦めた者や勘違いもいます。
その勘違いとは、独りよがりという意味ではありません。
逆に「人それぞれ」という言いまわし方や「そういう考えもあるよね」といった保守的でマジョリティな意見にひそんでいます。
人それぞれの考え方はありますが、人それぞれの事実はありません。
ひとつの事実があって、それぞれの考え方があるんです。
これは感想ではなく、事実と構造によって起こる現象の話です。その"現象"をよく理解し、それでもなお「人それぞれ」というのであれば、否定はできません。
結局はそれが、もっともな正論の終着点だと僕も思っているからです。
「人それぞれ」と言うからには
どう思うのか。どう感じるのか。
何が正しいのか。何が好きなのか。
どんな遊びや仕事をするのか。どんな友達や家族といるのか。
どんな服をきて、何を食べて、どこに住むのか。
「人それぞれでしょ」
全ての事はこの一言で済んでしまいますよね。済まないものがあるとすれば、それは 「済まない」のではなく「済まされない」と思っているか思われているかだけです。
そして、その済まされない事というのは、全体の一割程度な気がします。 この一割は、逃げられない大事な局面が多いんじゃないですか?
法律違反、人種差別、事件、事故、近年起こっている災害。コロナウイルスの緊急事態宣言、 外出自粛や営業自粛の判断もそうですね。
「人それぞれでしょ」では済まされたくないと思っているか、思われているか。
だから思うんですよ。
普段は何も主張しないのに、一割のことばかりに目くじらを立てるくらいなら、九割の済まされることも、たまには「済まさないぜ」と、遊び心で主張してみたらいいんじゃないですかね?
俺はこんなことが好きなんだぜ。
俺の服似合ってるだろ?
俺の歌を聞いてくれよ。
俺の絵を見てくれよ。
俺の考え正しいだろ?
残り一割の大事な局面に向けての主張の練習として、言う方も聞く方も気軽にいきましょう。
だってそうですよね?
「人それぞれ」なんですから。
おわりに
世間は「人それぞれ」と簡単に口にする割には、人それぞれの主張は少ないです。たしかに民主主義ではマジョリティの方が得をします。
リクエスト給食のアンケートの結果、みんなの大好きなカレーライスになりました、と言われるなら、カレーライスを好きな人の方が得ですよね。
でも、わざわざ好きにならなくても良いんですよ。ハンバーグでもいいし、ラーメンだっていいんですから。