マジョリティと多様性の時代
はじめに
サイレント・マジョリティというと、最近ではアイドルグループの曲がパッと浮かんできますね。
ところが、この言葉は1960年代に主に政治の場面で使われていたみたいです。
サイレント・マジョリティ ( 英: silent majority )とは、「静かな大衆」あるいは「物言わぬ 多数派 」という意味で、積極的な発言行為をしない一般大衆のことである。
一方で「多様性の時代」という言葉も最近よく耳にしませんか?
しかしこの「マジョリティ」と「多様性」というキーワードが目立つ現代に対して、少し違和感を感じます。
僕なりの解釈でまとめてみました。
- 目次 -
マジョリティ=多数派ではない
本来、人それぞれに人の数だけ答えが存在するのですが、民主主義である以上、多数意見が力を持ちます。
それゆえに「多数意見が自分の意見」と勘違いし、惰性に任せる者が現れる。僕はそれこそが「マジョリティ」の定義だと思います。
例えば、100人にAかBかを選択するアンケートを実施した結果、Aが40人でBが60人だったとします。事実上はAが少数派でBが多数派です。
しかし、このアンケートを50人ずつ行うとします。すると、最初の50人の結果の比率は同じく、Aは20人でBは30人です。
ところが、残りの50人にはこの結果を伝えた上でAかBかの選択をさせると、冒頭に述べた「多数派意見が自分の意見と勘違いする者」が現れて、Aが15人でBが35人というように違う結果となっていたりします。
この場合、合計の結果は、Aが35人でBが65人となります。増えたBの5人はどこからきたのかといえば、100人に聞いた時の少数派側に該当するのですが、50人ずつ聞いた場合は多数派側になっています。
つまり 実際のところ、この5人は少数派ではなく、多数派でもないと判明します。では、このような者達を何と呼んで表したら良いのだろうかと思うわけです。
自らの選択意識がない「マジョリティ達」と呼んで不自然はないですね。
そしてさらに、このようなマジョリティ達は、少数派に強い権力者がいる場合には、そちらに寝返ったりします。票が多数という意味ではなく、優位性が多いか少ないかを見ているわけですね。
そんな"多数派に流される多数派"が指摘される一方で「多様性の時代」と言うのですから、この相反する二つの言葉に違和感が生まれたのですね。
なぜ多様性という言葉を使うのか
なぜ多様性という言葉を使うのか
社会科学・人文学における多様性概念多様性が社会の変化と発展に不可欠な要素とみられることがある。たとえば、グローバリゼーションなどにより、特定の文化や地域の持つ問題解決的発想の喪失などのデメリットが憂慮されることから、文化多様性・地域多様性などの概念が用いられている。
引用元:多様性 - wikipedia
これからは多様性の時代なのだと言いますが、国籍や人種、価値観や宗教など、これらは元々どんな時代にも多様にあったハナシではないですか?
インターネットの普及をはじめとするITの発展により、それらが情報として可視化されただけではないのかと思うんです。
一方で、今までになかった新しいテクノロジーと、それが生み出した文化も多様ですね。僕が小学生だった三十年前には存在しなかったものです。ちなみに、多様に進化しているのに、学んでいる内容が昔と大差がないのもオカシイ話ですね。
つまり、これまでにも存在してきた多様と、新しく生まれた文化的な多様も ひっくるめて「多様性の時代だ」と言っているわけです。
ここまで幅を利かせられる「多様性」とは便利な言葉ですね。
「イイネ」「みんな違ってみんなイイ」
ここに仲間入りするであろう「多様性」という言葉。
ワタシはワタシで理解して、アナタはアナタで理解する。いっけん、俯瞰して客観視できている感じを出せてしまうのも万能で便利といえますね。
現代ではスマホひとつでも、自分の好きなものだけのコンテンツ、自分の好きな人とだけのつながりが容易ですから、各所で小規模なコミュニティが生まれて、個性が伸びていくのは当然のことのように思います。
その個性というものを、民主主義が生んできた大規模なマジョリティ達では理解することができず、その理解を無理に当てつけた表現として「多様性」という言葉を人々は使うのではないでしょうか。