大人になっても作文を書こう
はじめに
最近、雑記のような文章を短時間で1,000字ほど一気に書き込むことが、週に一度ぐらいの周期でおとずれます。このタイミングは一度逃すと同じ文章を書くことが難しくなるため、決して逃してはならないと分かっています。
一心不乱に書き記したその文章は、第三者から見て正しいと思うのか、間違いと思うのかは別として、通常の自分を一歩超えた表現力が瞬発的に発揮されます。
翌日に、その文章を読むと「なんじゃこりゃ」と思いながらも、昨日の自分は なぜそれを書き記し、なぜそれを最適解としたのか、今日の自分では、もう理解不能となることもあります。
しかし不思議なことに、今日の自分では到底 思い浮かぶことのない優れた表現だと思うこともあり、まるで他人の文章を読んでいるかのように、それを楽しんでいるのだから笑えます。
だから、没頭して生まれた文章を、次の日の自分に読ませてあげるのは、最高に面白い作業です。究極的な自己満の世界ですね。
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自分らしい文章を残す
ここまで文章を書き続けているのは人生で初めてです。
同じような表現もありますが、伝えたい事に変わりは無いので、似た内容になってしまうのは仕方がないのかもしれません。自分の文章を客観的に読んでみると、世の中の矛盾とか、多数派意見への疑問とか空想や隠喩(メタファー)などが多いのかなと思います。
文章を書くと自分でも知らなかった自分の事が見えてきますね。出来るかぎり僕は「自分らしい」文章を書き残しておきたいです。
自分らしいというのは、他人らしくないという意味でもありますが「みんながAなら僕はBなんだ」という偏屈を述べる気はありません。
学校で作文や日記。好きな人へのラブレター。仕事では報告書。人は生涯に文章をどれだけ書いているのでしょう。
別に文学に精通する者でなくとも、相当な量を書いています。その中からすれば、たったの数万字、このような文章も書き留めておいたところで、そう特別な事でもないのかもしれません。
文章には言葉にはない魅力がある
もちろん文章は書くだけでなくて読むことも大事ですね。本って、たまに読むと良いですよ。
会話も良いですけど、言葉は添削できないんで、文章だとムダを削ぎ落とした感じが新鮮です。飾られすぎると良くないですけど、エッセイのような柔らかい文章なら良いですね。
硬い文章だと、教科書みたいですよね。教科書って正しいことが書いてあると思って育ってきていませんか?中年の僕には疑って見てしまいます。でも実際、教科書すら間違えてることがあるらしいです。頭の良い子というか、ギフテッドのような子供は、当たり前のように間違い を指摘するそうです。先生も困ってしまいますね。
そもそも教えるための本ってのも、どうなんですかね? 内容は全て人間が勝手に決めたものですよ。作者の心情を述べよ、みたいな押しつけがましい「教科書」じゃなくて、気持ちを共感しよう、という「共感書」というものがあれば良いですね。
冗談です。
文章に解説はいらない
「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」
金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」の最後の二行。 これも教科書に載っていましたよね。 この作品の解説というのを読んだら「私」を最後に書くことにより 「鈴」という無機質なものにも尊さを感じさせ... と書いてありました。 その通りで良いと思いますが、このような解説って要らないですよね。
どんなに賞賛されて同調する人が多い作品でも、自分の感性は持っているべきですよ。
僕は「みんな違って、みんないい」じゃなくて「みんな違ったほうがいい」の一言の方がシックリきます。否定じゃないです。
金子みすゞさん、素敵ですからね。
おわりに
そういえば先日、タンスから12歳の時の卒業文集が出て来て、懐かしい友達の作文も読んでみたんですけど、面白かったですね。
子供の作文とは思ないような表現力でした。どんな人も文章を、沢山書いたことがあるはずですよ。ちょっと試しに書いてみたらどうでしょう。新しい自分が見つかるかもしれませんね。