路地裏のグラフィティ

日常に埋もれた論理的な話や哲学的な話

「なんだか好き」という感情

はじめに

子供に「何が楽しいの?」とか「何が嬉しいの?」と聞くと、うまく答えられません。言葉で説明できないのかもしれませんが、それが良いところです。

ワクワクする感情は、説明させないままの方がイイと思います。

今回は そんな「好き」についてを綴りました。

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 -目次-

 

好きな事より好きな人

僕は好きな事をしている人が好きですね。

人は好みが同じ人に共感しますが「好きな人の好きな事」にも共感することができるんじゃないですか?

例えば、仲の良い友達から「一緒に芸人になろう」と誘われて、ノリ気じゃないけど始めてみたら、本人が相方より売れていたり。

スポーツが大嫌いなお父さんが子供のサッカーがキッカケで自分も始めて、いつの間にかコーチまでしていたりとか。

たぶん、優先されるのは常に「事」より「人」が先に立つんですよ。

「好きな人が好きな事は好きになる」というのなら、わざわざ他人から好かれる事を探して好きにならなくてもいいですね。

自分が好きな事を、そのまま好きでいる方がいいですから。

 

好きなことで得た幸せは迷惑に勝る

「人に迷惑をかけてはいけません」

たしかにそうですね。

人は生きているだけで、誰かに迷惑をかけています。

なのに、もっと迷惑をかけて何かしようとしているのですから。

でも、人は生きているだけで誰かを幸せにもしています。

そして「誰か」とは自分自身も含んでいます。

なのに、もっと幸せになりたくて何かしようとしています。

迷惑と幸せは生きているだけで存在しています

だから日頃から「誰かに迷惑をかけてないか」と心配したり 「誰かをもっと幸せにできないか」と気を張りすぎる必要もないですね。

自分が好きなことに夢中な時に「これは誰かの迷惑ではないだろうか」と少し考えるくらいで ちょうど良いです。

それが本当に好きな事ならば、必ず幸せとなるので、その幸せを別の形にして、身近な人に分けてあげれば良いです。

そうすれば、多少の迷惑すら、こころよく受け止めてくれるはずです。

 

おわりに

大事なことは「なんだか好きだなぁ」と思うこと。

この「なんだか」という感覚を大人になるまで大切に持っていると、道しるべに変わることがあります。

大人になると、嫌いなことに対して、やるべき理由をコジつけることが得意になります。

すると、好きなことが、なぜ好きなのかという理由も見つけようとします。

ところが、好きなことの理由には「なんだか好き」というだけで、最初から明確な理由などありません。

なので「理由がないものは価値がない」と錯覚した大人達は「なんだか」という感情を無視して、好きなものを好きではなくなったり、やりたいけれど、やるべきではないのかと苦悩することがあります。

ところが本来は、好きなことも嫌いなことも、理由など必要ないのです。

「なんだか好き」「なんだか嫌い」

これで十分な結論になっていますからね。