路地裏のグラフィティ

日常に埋もれた論理的な話や哲学的な話

「人それぞれ」という考え方

はじめに

事実は ひとつしかありません。

しかし 考え方は人それぞれです。だから意見の相違が生まれるのですが、判断に必要な事実や根拠を集めていくと、論理的にモノゴトを捉える者同士の考え方は似てくるものだと考えています。

僕は論理的思考が好きですが、思考のスピードが速い訳ではないので、人よりも早く論理の結末にたどり着けるわけではありません。

ただし、まわりの人が「もういいよ」と言っても、自分だけは飽きずに、懲りずに、考え続けていられるタイプです。

そんなふうに僕が考えた論理が、自分のいる場所と全く別の場所で似たように存在していたりすると、論理の行きつく結論は限られているのかなと思えてしまうことがあります。

だから、事実や根拠を理解しようとする前に「人それぞれだね」と言って、分かったフリをしてしまうのは、間違いかもしれませんね。

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判断には特性の理解が必要

モノゴトは千差万別なのだから、良し悪しの判断は「そういう特性である」と受け止めてからでないと不可能なはずです。

たとえば「青信号だから渡っても良いのか悪いのか」という判断は「周囲の人や車が赤では止まって、青では進んでいる」という特性を理解しなければ判断できません。

すると、赤でも進んでくる車がいるのならば、歩行者は青だからといって進んでも大丈夫だという事にはならないと分かります。

あたり前のような話なのですが、意外に特性の理解を万人はおろそかにしがちです。

この人は良い人か悪い人か?この食べ物は良い物か悪い物か?

そのようにして判断してしまった上で、後から都合よく特性をコジつけてしまうという現象のようなものです。

世の中には、簡単なロジックから難しいロジックまで存在します。

これは必ず存在します。

それでも無いと思えるのは、それが複雑すぎて人間にとって理解不能なロジックだからです。その理解を嫌う者や理解に苦しむ者もいます。理解を諦めた者や勘違いもいます。

その勘違いとは、独りよがりという意味ではありません。

逆に「人それぞれ」という言いまわし方や「そういう考えもあるよね」といった保守的でマジョリティな意見にひそんでいます

人それぞれの考え方はありますが、人それぞれの事実はありません。

ひとつの事実があって、それぞれの考え方があるんです。

これは感想ではなく、事実と構造によって起こる現象の話です。その"現象"をよく理解し、それでもなお「人それぞれ」というのであれば、否定はできません。

結局はそれが、もっともな正論の終着点だと僕も思っているからです。

 

「人それぞれ」と言うからには

どう思うのか。どう感じるのか。

何が正しいのか。何が好きなのか。

どんな遊びや仕事をするのか。どんな友達や家族といるのか。

どんな服をきて、何を食べて、どこに住むのか。

「人それぞれでしょ」

全ての事はこの一言で済んでしまいますよね。済まないものがあるとすれば、それは 「済まない」のではなく「済まされない」と思っているか思われているかだけです。

そして、その済まされない事というのは、全体の一割程度な気がします。 この一割は、逃げられない大事な局面が多いんじゃないですか?

法律違反、人種差別、事件、事故、近年起こっている災害。コロナウイルスの緊急事態宣言、 外出自粛や営業自粛の判断もそうですね。

「人それぞれでしょ」では済まされたくないと思っているか、思われているか。

だから思うんですよ。

普段は何も主張しないのに、一割のことばかりに目くじらを立てるくらいなら、九割の済まされることも、たまには「済まさないぜ」と、遊び心で主張してみたらいいんじゃないですかね?

俺はこんなことが好きなんだぜ。
俺の服似合ってるだろ?
俺の歌を聞いてくれよ。
俺の絵を見てくれよ。
俺の考え正しいだろ?

残り一割の大事な局面に向けての主張の練習として、言う方も聞く方も気軽にいきましょう。

だってそうですよね?

「人それぞれ」なんですから。

 

おわりに

世間は「人それぞれ」と簡単に口にする割には、人それぞれの主張は少ないです。たしかに民主主義ではマジョリティの方が得をします。

リクエスト給食のアンケートの結果、みんなの大好きなカレーライスになりました、と言われるなら、カレーライスを好きな人の方が得ですよね。

でも、わざわざ好きにならなくても良いんですよ。ハンバーグでもいいし、ラーメンだっていいんですから。